大阪市教育委員会が,子どもに体罰を加えた教職員に対する処分の基準を改め,公表しました。
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「体罰・暴力行為を許さない学校づくりの徹底について」及び「体罰・暴力行為に対する処分等の基準」策定について
http://www.city.osaka.lg.jp/hodoshiryo/kyoiku/0000291684.html
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改定のポイントについて,大阪市教育委員会は次のように説明しています。
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大阪市教育委員会は,平成25年9月に策定した『体罰・暴力行為の防止及び発生時の対応に関する指針』において,非違行為を行った児童生徒に対する懲戒目的の「体罰」と,児童生徒に非違行為がなく懲戒目的とは言えない「暴力行為」を明確に区別しました。いずれも法的に禁止された許されない行為ですが,懲戒処分及び行政措置(以下,「処分等」という。)の量定については,「児童生徒の非違行為に対する行為」と「非違行為のない児童生徒に対する行為」を同一基準で判断することは適当でないと考えられ,今後は「非違行為のない児童生徒に対する行為」に対しては一層厳正に対処していくこととし,従来の基準(内規)を改定して,新たに下表のとおり「体罰・暴力行為に対する処分等の基準」を設定します。本基準は,公表し,広く周知していくことで,教職員の更なる自覚を促し,暴力的指導に頼らない,人格の尊厳に根ざした指導を徹底するとともに,学校教育への信頼に繋げたいと考えています。なお,本基準は,大阪市職員基本条例第28条及び別表の定める懲戒の基準を遵守し,その公正かつ厳格な運用を図るものです。
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不利益処分について一定の基準を示そうという姿勢は評価できますし,判断に際して子どもの非違行為を考慮すること自体が許されないとも思いません。引っかかるのは,なぜ非違行為の存否が処分の軽重を決定的に区別することになるのか,という点です。
「体罰教師」と言えども,誰それ構わず手を挙げるわけではありません。「おりこうさん」は体罰がなくても言うことを聞いてくれるので,多くの場合,ターゲットになるのは「やんちゃ」な子どもたちです。そうした子どもたちの言動を一面的に切り取って「非違行為」だと主張しようと思えば,ネタはいくらでも出てくるはずです。
しかも非違行為の存否は処分の軽重を大きく左右するわけですから,処分を争う教職員は,子どもに非違行為があったことを徹底的に争わざるを得ません。場合によっては,「この子はこんなに悪いことをしたんだ。」,「こんなこと言われたら,ゲンコツのひとつやふたつあっても仕方ないだろう。」,「この子は日ごろから素行が悪く,手を焼いていたんだ。」といった主張が法廷に持ち込まれる可能性もあります。
しかし,こうした教職員の主張は,教育のあり方として適切なのでしょうか。「非違行為」は,その子どもが家族や友だち,あるいは当の教職員との関係で抱える悩みを表しているかもしれません。子どもの心理的な課題が,その背後に見え隠れするかもしれません。そう考えると,教職員には,「非違行為」があったときこそ,力に頼らず,語り諭すことが求められているのではないでしょうか。「子どもに非があれば大目にみるよ。」と言い切る今回の新基準は,私には,教育のあり方を根本から否定しているように思えてなりません。
大阪市教育委員会は,引用した文章にも見られるように,児童生徒の非違行為に神経を尖らせています。今年の5月には,いわゆる「ゼロ・トレランス」を実践に移す検討を始めたという報道も目にしました。こうした流れの中で今回の新基準を見ると,そこには「非違行為のある児童生徒は教育現場から排除する」という強烈なメッセージが込められていることが読み取れます。
しかし,「非違行為」のある子どもは,教室から追い出せば済むのでしょうか。「非違行為」に至った原因を探り,子ども自身の気づきを促すのが教育の役割ではないでしょうか。教室は,いつ間に「おりこうさん」のためのものになったのでしょうか。
排除される子どもたちが心配です。どうやって歯止めをかけられるか,ない頭をひねってみます。
あびこ